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Jリーガーとしてのデビュー。現役14年を支えたもの 深井 正樹 vol.3

Jリーガーとしてのデビュー。現役14年を支えたもの 深井 正樹 vol.3

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深井 正樹(ふかい まさき)
駒澤大学 総合教育研究部スポーツ健康科学部門 助教 / 駒澤大学 サッカー部コーチ

1980年 山梨県生まれ。
小学校からサッカーを始め、全国大会などに出場。
ドリブルを武器に、高校、大学と活躍。駒澤大学在学時は大学サッカー史上最高の2トップの一人と評された。
2003年 鹿島アントラーズに加入。
2007年 アルビレックス新潟
2008年 名古屋グランパス
2008年夏 ジェフユナイテッド千葉
2014年 V・ファーレン長崎
2016年 SC相模原
2016年12月 14年間のプレイヤーとしてのキャリアを終える。
早稲田大学大学院にてスポーツビジネスを学ぶ。
2019年4月 駒澤大学に助教として在籍。現在に至る。

 現役時代が短いとされるJリーグ。一説には2〜3年で引退する選手が多いと言われている。
 その激しい競争の中で、14年間という長い間プレーを続けた選手がいる。深井正樹氏だ。
 深井正樹氏がどのようにしてJリーガーとなり、そして、セカンドキャリアを築きつつあるのか。
インタビューにて掘り起こしていく。

Jリーグから声がかかりましたか?

 最終的には、鹿島アントラーズ、名古屋グランパス、横浜マリノス、柏レイソルの4チームからお声掛けいただきました。

 4年生になる頃に鹿島アントラーズから声を掛けていただきました。

 ここはだいぶ悩みました…。3年生までは鹿島アントラーズからオファーが来たらすぐ決める!と言っていたのに、4年生の11月まで悩みました。柏レイソルと悩みましたね。

 当時、柏レイソルはJ2に降格しそうだったんです。それでもスカウトの方が練習も試合もずっと見に来てくれていて、情熱がすごくて。だから、J2に落ちたとしても柏レイソルに行きます、と監督に伝えたんです。

 ところが、柏レイソルに行きます!と伝えたときに監督から「1日考えてこい」と言われました。「わかった、レイソルな、じゃあ言っとくわ」くらいの反応だと思っていたのに、僕をここまで育ててくれた恩師が即答ではなく、1日考えてこいと言うくらいだから、一旦考え直したほうが良いのかな、と気持ちが揺らいでしまって。きっと監督は鹿島アントラーズに行った方が良いと思っているんだろうと考えて、次の日に鹿島アントラーズに行きます!と伝えました。

 後で監督に聞いてみたら、反対していたわけではなく、もし柏レイソルがJ2に降格した後、僕のサッカー人生がすぐ終わったとしても、コーチであったり、何らかの形でチームに残れるような契約にして欲しいという交渉をしてくれていた1日だったそうです。そうとは知らずに、翌日に僕は鹿島アントラーズに気持ちを変えてしまい、監督は柏レイソルに謝ったそうです。ご迷惑をおかけしてしまいました。

 僕が鹿島アントラーズに決めたのは、最終的には日本代表に近いと考えていたこともありますし、鹿島アントラーズで試合に出られたら日本代表だという考えもありました。鹿島アントラーズで通用する・しない、ということは考えていなかったですね。

Jリーグに入って、大学とのギャップはありましたか?

 鹿島アントラーズはすごかったですね。

 当時の日本代表クラスの選手ばかりでした。紅白戦をやったら、相手は11人中9人が1998年ワールドカップと2002年ワールドカップの日本代表でしたね(笑)

 そんな選手たちが新人だろうがなんだろうが鬼の形相で戦ってくるんですよ。それが衝撃的で、鹿島アントラーズってすごいと思いました。プライドとプライドのぶつかり合いのような日々で、刺激的な時間でした。

その中でポジションはどうやって勝ち取ったのでしょうか。

 どうでしょう…チームの結果は出ても、個人の結果がなかなか出なくて。いろいろ思い悩んでいましたね。ただ、自分の武器で戦っていくしかない、結果を出していくしかないと思っていました。

 当時、プレーをもう少し整理できていれば変わっていたかもしれないと、今振り返って思うことはあります。鹿島アントラーズは、誰が点を取っても1点は1点という文化ですが、それでもやっぱり個人で点を取ることは重要でした。僕はもっとこだわった方が良かったかもしれません。もっと自分を活かしてもらえる動きや、ボールをもらう位置などを考えられたんじゃないかと思います。

 あの時にもっと視野を広く持てていれば、もっと判断ができていれば、という反省はあります。そういうコンプレックスがあったから、今の興味関心がライフキネティックにつながっているかもしれません。

最初の移籍はどういった経緯でしたか?

 僕はサイドハーフで使われることが多かったので、フォワードで使って欲しかったことと、もっと試合に出たいという気持ちから移籍を考えました。鹿島アントラーズでクビになるまでやりきれなかったのは、少し後ろ向きな選択だったかもしれません。

 ただ、移籍は悪いことではなかったです。確かに日本代表からは遠ざかったような感覚はありました。ただ、移籍によって色々な人に出会い、色々な指導者に出会い、色々なサッカーや考え方に出会えました。J1、J2、J3というカテゴリーも経験できました。

 プレイヤーとしては良い選択ではなかったかもしれません。でも、日本代表になることだけがサッカー選手としての目標ではないので、人生の選択としては良い選択だったと思います。

現役14年、続けられた秘訣はありますか?

 サッカー選手の引退は大体25歳〜26歳と言われていますね。

 僕は、大学までの積み上げがあったからかもしれません。プロになりたいという強い想いで、4年間でプロになれなかったらサッカーを辞めるという覚悟で、生活の全てを捧げました。自分を精神的に追い込んだことが重要でした。

 簡単な言葉で言えば、努力の蓄積、なのだと思います。

現役時代に大きな怪我などはありましたか?

 2013年にジェフユナイテッド千葉を退団するときに、自主練中にボールが当たって網膜剥離になりました。次のチームが決まりそうなタイミングでしたが、破断になりました。リハビリ期間は辛かったです。2度の手術をして、3ヶ月練習ができなかった。ただ、Facebookでリハビリの様子を投稿したら、たまたま見てくれた関係者が連絡をくれて、V・ファーレン長崎につながって、またサッカーをやらせてもらえるという経緯もありました。
 人のつながりって素晴らしいですね。

 大きな怪我はこれだけですね。これも大学からの蓄積かなと思います。身体も結構しっかり鍛えていましたから。

現役引退は、どんな決断だったのでしょうか。

 現役にこだわりが無かった訳ではありませんが、自分と家族が生活できる状況ではないなら、サッカーを辞めようと思っていました。

 サッカーをやりきった感覚もありました。カテゴリーを下げればやっていけますが、現役サッカー選手だけが人生ではなく、サッカー指導者への興味が湧いてきたので早くチャレンジしたいという気持ちが芽生えていました。

取材:田沢
編集:小林(ひ)

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